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ソロモン諸島に何が起こっているか

八坂@元ソロモン

 ソロモン諸島はオーストラリアの北東、メラネシアに位置する、992の島々からなる島国です。面積29000平方キロ、人口40万人(1996)。2000メートル級の緑豊かな山々とコバルトブルーの珊瑚の海が共存する、自然の宝庫です。70%の人々は村に滞在し自然とともに暮らしています。

 首都はガダルカナル島のホニアラにあり、ご存じの方も多いでしょうが、第2次世界大戦の激戦地になった所です。島々の間の海底には70を超す日・米などの戦艦が沈んでいて、今では観光資源のひとつとして利用されています。

 産業はと言うと、林業、漁業、鉱工業、観光業など。特に木材やマグロの輸出はソロモンの経済をこれまでずっと支えて来ていました。

 「奇麗な珊瑚の海とヤシの木」と言う太平洋のイメージそのものの世界からソロモンの状況が変わり始めたのは1998年12月のことです。ガダルカナル島の北ガダルカナルやウェザーコースト在住のマライタ島民の家が次々に襲われる事件が発生しました。(マライタ島はガダルカナル島の北東にある島で、元々その島出身の人々がここ30~40年ほど首都ホニアラのあるガダルカナル島に現金収入などを求めて移住して来ていました。)

 元々の発端は12月初旬にガダルカナル州知事が、ある土地についてそれが不当に売却されたと言う見解を示し、州政府として売却後の土地登録を受理しないと発表したことにありました。その土地にはマライタ島民が関連していて、その発表は今後のマライタ人のガダルカナル在住をもゆるがすものだったからです。この発表に刺激され、マライタ人は発表直後に首都をデモ行進しました。そしてそのデモ行進に刺激されたガダルカナル人が、マライタ人の住む村を襲撃する行動に出たのです。

 この事件以来、マライタ島出身者としても黙っていられない人々が続々と出て来ていました。

 私がそれも知らずにソロモンに赴任したのは1999年3月のことです。首都の雰囲気では、12月の事件をさほど重要視していない、これまでの「平和」にあまりにも慣れてしまっていて、この状況がここまで悪化するなどとは誰も思っていなかったのではないかと思います。

 状況が急激に悪化したのは、4月に入ってからでした。マライタ人が武装したガダルカナル人グループ(「ガダルカナル革命軍/GRA」後に「イサタブ自由戦士/IFF」)に襲われ、80人以上が村を追い出されるはめになったのです。これまでも散発的に事件は起こっていましたが、この事件を大きなきっかけとして、黙っていられないマライタ人が逆襲に出始め、事実上「マライタ・イーグル・フォース/MEF」が結成されました。

 新聞やラジオからは、今日はこの村のマライタ人が襲われた、今日はマライタ人がガナルカナル人をと言う具合に、終わりのない報復活動が報道されていました。犠牲者も毎日数人から数十人単位です。ヤシのプランテーションで働くマライタ人は皆追い出され1000人以上が難民化しました。マライタ人が住む村に住んでいた日本人が人違いで襲われる事件もありました。ホニアラ市内でも、マライタ人によるデモや商店が襲われたり、道路封鎖や検問で武器となりそうな物は全て没収されました。警察のコントロールはもう効かない状態でした。ホニアラをカバーしている水源に毒が入れられたと言う噂もあり、日本大使館から真夜中に電話があって「確認できるまで水道の水は飲まないで下さい」とも言われました。様々な情報が交錯していて、何が真実なのか分からない状態で、ただ事態が悪化している様子は伺えました。

 5月に入って、事態の深刻さを認識したガダルカナル州知事とマライタ州知事の間で和解式が正式に行われ、ガダルカナル州知事からマライタ島民に公式な謝罪がされ、武装グループに武装解除を呼びかけましたが、これは殆ど効果がありませんでした。

 政府が非常事態宣言を発令したのは6月15日です。日本政府もソロモン諸島を「危険度2」(観光旅行延期勧告)に指定しました。

 この日の前後に多くの人々が避難して行きました。ガダルカナル島を脱出すべく集まったマライタ人で港はパニック状態となり、すしずめ状態のフェリーがどんどん出航して行きました。また特に外国人に被害が及んでいる訳ではありませんでしたが、様子を見るために数週間から1ヶ月の単位でホニアラを離れる外国人も多くいました。青年海外協力隊の人たちも首都に集められ、いつでも脱出できる体制が取られていました。そして私も1ヶ月避難しました。

 一連の事件の原因は根深くかなり複雑です。

 ソロモンは人口40万人ほどの島国ですが、その中に100以上の言語があります。マライタ島は最大の人口を抱える島で、その中にも12の言語があり、それぞれのアイデンティティを形成していますが、言語や習慣は近く「マライタ人」と言うアイデンティティもまた存在します。またガダルカナル島にも19の言語があります。そのためピジン英語が公用語となっていますが、「ワントーク」と呼ばれる統一言語を話す人々の繋がりが大きく強いネットワークとして存在しています。

 ここ30~40年ほどの間にガダルカナル島に移住して来ているマライタ人は、一時的な出稼ぎの場合もあれば、公務員になったり自営業で生計を立てている人も少なくありません。そして移住して来たマライタ人は政府所有の土地を借りたりまたは不法占拠してそこに家を建て、畑を作り、同郷の人たちと「村」を形成して行きました。一家に働き手が一人いるだけで、それをあてにして次から次へと親戚が集まって来ます。

 政府所有の土地と言うのも問題のひとつです。第二次世界大戦前、イギリス植民地政府の首都はツラギ島という別の島にありました。それが第二次世界大戦となりガダルカナル島で日本と連合軍の戦いが繰り広げられた後に、アメリカ軍がそのまま空港や各種施設のあるガダルカナル島に駐屯したため、それからホニアラが首都になったのです。この過程で首都周辺のガダルカナル島民の土地は政府に没収された形となりました。そしてその後の開拓に低賃金で借り出されたのがマライタ人でそのまま移住し、マライタ人コミュニティーはどんどん膨れ上って行き、ホニアラの人口の4割を占めるまでになったのです。

 ガダルカナル島民にしてみれば、マライタ人が現在住んでいる土地はもともとは自分たちの物、取られた土地なのです。そこに我がもの顔でいるマライタ人を見れば、不満は募るのも当然かも知れません。

 また開発の不平等(首都ホニアラのあるガダルカナル州が他州に比べて発展している)による首都近辺の人口増加(他島からの移住)、そして雇用機会の不足も原因の一旦を成していると言えます。ホニアラ市内にはいつも若者がたむろし、何をすることもなく一日を過ごしている様子をよく見かけました。「リウ」と呼ばれる若者たちです。都会に憧れてやって来るのでしょうが、仕事はなく、それでも「ワントーク」のコミュニティーを頼れば衣食住の心配はないのです。そんな若者たちが集団心理でデモの途中に商店を襲って物品を強奪したり、また銃やナイフを振りかざして道路封鎖や検問をして楽しんでいるかのようでした。皆見るからに10代の若者たちです。何をしようとしているのか分からずにゲリラ活動に参加している若者も多くいたのではないかと思います。

 ソロモンの紛争の調停者に名乗り出たのはフィジーのランブカ元首相でした。ソロモンの当時のウルファアル首相はマライタ島出身者のため、調停者には適任ではないと判断されたのでしょう。ウルファアル氏の要求に答える形でランブカ氏はイギリス連邦事務総長特使として2000年6月にソロモンに到着しました。(1987年のクーデターでフィジーの民族対立の当事者であったランブカ氏がソロモンの紛争の調停に乗り出たのも、考えれば何だか妙な話ですが。)

 ランブカ氏の指揮のもと、6月28日にホニアラ和平合意がガダルカナル州とマライタ州の間に調印され、後にイサタブ自由戦士/IFF(ガダルカナル人の武装組織)もこれに調印しました。(この時点では後のマライタ・イーグル・フォース/MEF/マライタ人の武装組織/は正式に組織化されていませんでした。)

 これで事態は正常化の方向へ向かうと楽観視されているようでしたが、ホニアラ和平合意はガダルカナル側に随分配慮した形となっていました。その中にはマライタ人被害者への賠償についても触れられてはいましたが、大きなものとして「250万ソロモンドル(約5000万円)を和解金としてガダルカナル側に供与」「土地に関連する法律の見直しと違法に奪われたガダルカナルの土地を所有者に返却」「ガダルカナルの土地への無断住居者に対する罰金刑の採用」「各州平等な開発」「州の権限を強化(Province制からState制への移行の検討)」などをうたっていました。これがマライタ人に受け入れられる訳がありません。

 結局和平合意の調印も空しく、7月に入っても小競り合いは終わりませんでした。事態を収拾すべく政府の警察軍が関与していましが、ガダルカナルの武装組織イサタブ自由戦士/IFFと警察軍との争いでIFFの中に犠牲者が出る事態も発生し、これでガダルカナルの緊張は再び高まりました。8月にはランブカ元首相が再びフィジーから駆けつけ、再び和平交渉を進め、その結果パナティナ合意(パナティナは場所の名前)がダルカナル州知事や警察・国家安全大臣らの間で結ばれました。これは6月に結ばれた平和協定を確認し、実行に移すための合意でした。

 8月15日パナティナ合意の発効とともに、政府は非常事態宣言を解除しましたが、それでも状況は変わりませんでした。

 もうこの時期になると、毎晩の様に何処からか銃声が聞こえるような状態です。行動範囲も限られホニアラ市内から出ることは勿論、夜の外出は控え、マーケットなど人の多い所も避ける、実質上何もできないような状態でした。そして確実に徐々にガダルカナル島のマライタ人が減って行きました。武装したIFFのグループがマライタ人の家を一軒一軒脅し、焼き落して行きました。マライタ人に限らず、事態に巻き込まれることを恐れる人々が次々と島や村に帰省して行きました。マタイラ人を多く雇用していた会社も事実上運営が困難な状態となり、閉鎖寸前のところを狙ってIFFが襲撃し根こそぎ破壊し車などを強奪して行きました。外国人経営のリゾートや子どもたちが通う小学校までもが狙われ、殆ど無差別に破壊活動が繰り返されて行きました。学校は勿論閉鎖されました。

 11月には、ガダルカナルに残っている数百人のマライタ人が国会の周辺で、財産損失への賠償要求のデモを展開しました。政府は一部の避難民に対して補償金を出しているが、まだ60%の避難民が政府から何の助けも受けていないとの主張でした。

 翌2000年1月には、マライタ島の州都アウキで警察の武器庫が襲われ銃と弾薬が盗まれました。「マライタ・イーグル・フォース/MEF」でした。MEFのメンバーの一部が警察官で、その手引きによるものと言うことです。2月にはMEFがガダルカナル人の村を襲撃し、死者も出ました。武装したMEFは破壊活動を広げて行きました。

 そして2000年6月5日、マライタ人の警察官が警察軍のメインの武器庫を MEFに解放し、1200の武器を与え、ウルファアル首相 が自宅で拘束され、事実上クーデターに向かったのです。これはマライタ人(MEF )によるマライタ人(首相)の追放劇でしたが、当時の ウルファアル首相はMEFのメンバーとは違う村の出身と言うのがネックでした。

 外国人は、オーストラリアやニュージーランドから派遣された軍輸送船などで続々と脱出して行きました。既に空港は閉鎖されていました。青年海外協力隊の人たちも3~4手に分かれてそれぞれにオーストラリアに向かいました。他国援助機関も同じ状況で、一部残留する人を除けば、皆着の身着のままの状態で、家財道具や身の回りの物をまとめる時間も余裕もない緊迫した状態でした。

 ウルファアル首相 を軟禁状態から解放するための条件である首相の不信任決議は、その後の政治的、社会的混乱を予想して、総辞職する道へと変更されました。そしてその後の首相指名選挙で選出されたのはソガヴァレ首相(チョイセル島出身)です。彼の公約は「紛争の原因は政府のこれまでの無策にある。武装組織のメンバーに対しては現行法の改正後に特赦を与え逮捕を免除する。また武装組織から出されている補償金についても全てを受容する」と言うものでした。しかし首相指名選挙に関しても6人の議員(主に与党)がMEFによって阻止された交通手段の問題によって参加できず、またソガヴァレ首相とMEFが繋がっていると言う噂もありました。

 この時点でホニアラ市内はMEFと政府警察軍によって治安秩序維持の共同行動が実施され、ホニアラ以外のガダルカナル島はIFFによって支配されている状態でした。

 MEFがホニアラをコントロールし始めてから、MEFなどのマライタ人は無差別的にビジネスオフィスや商店などをねらうだけでなく、他州出身者、とりわけウェスタン州、チョイセル州、マキラ・ウラワ州、テモツ州、レンネル・ベロナ州出身者をターゲットにして行きました。これらの州が州(province)からより独自色を強く打ち出した「州」(state)への移行宣言をしたのがその理由です。MEFは、その宣言を、MEFの権威やMEFによるホニアラのコントロールを否定するものとして受け止めたのでしょう。これは結局ホニアラから多くの住民が出身州へ戻っていく事態をもたらしました。さらに罪のない市民に対する嫌がらせ、金品の略奪、車両などの盗難が増加して行きました。1週間に12台の車が盗難にあうケースもあり、警察は犯罪者が町中を自由に往来していてもすでに取り締まる力もない状態でした。

 7月には武装したMEFメンバーがソロモン・タイヨー社(大洋漁業)の漁船を襲う事件、また日本人漁船員が使用している宿舎を襲い、現金と物品を奪って逃げる事件が発生し、ソロモン・タイヨー社はすぐに操業停止し、後に大洋漁業はソロモンから撤退することになります(営業権は政府に移る)。同社はソロモン諸島最大の水産会社で、同国の経済を担う主要企業のひとつでした。紛争の勃発以来、ソロモン諸島の主要企業の操業停止は、ソロモン諸島プランテーション社(SIPL、アブラヤシ農園)、ゴールド・リッジ・マイニング社(金採掘)に次いで3社目でした。

 紛争はソロモン経済にも大きな打撃と損失を与えて行きました。特に外貨獲得に関しては深刻な状況で、2000年上半期の輸出は前年の約40%にまで落ち込みました。

 2000年8月にはマライタ・イーグル・フォース/MEFとイサタブ自由戦士/IFMリーダーが停戦合意文書にサインし発効されましたが、発効の3日後にはIFMによるMEFメンバーの殺害事件が発生し合意は早くも破られ、これはまたMEFの報復活動再開に繋がりました。その後IFMメンバーによるケマケザ副首相(紛争処理担当大臣)出身村の襲撃、IFMの一部のメンバーによるソロモン航空の国内線プロペラ機ハイジャック、国際赤十字社の襲撃などが繰り広げられました。ホニアラでは、6月以降、住民の半数が水道供給の問題にも直面していました。度重なるMEFによるIFM支配地域への侵攻に対する報復として、IFMが水源を爆破したのがその原因で、水道局もホニアラの現状から十分な復旧作業ができないでいました。

 10月15日にはオーストラリア仲介の元「タウンズビル和平合意」がIFMとMEF、関係政府の間で調印されました。これまでにも和平合意や和平会談は何度も実施されていましたが、その効力は十分に発揮されていなかったため、この合意に期待している人がどれくらいいたでしょうか。

 タウンズビル和平合意に基づき、すべての銃、武器および弾薬は、合意文書発効後30日以内に国際停戦監視チームによって回収されることになり、ガダルカナル島民以外のガダルカナル島内の土地取得について審査委員会が設置されることになり、マライタ州およびガダルカナル州は中央政府からの権限委譲あるいは憲法改正を通じて、より自治的な行政機構に改変される計画が出されました。そして、1998年以来対立を続け、戦闘状態にあった武装組織IFMとMEF双方の司令官は、国内を戦闘状態に陥れたことに対し国民に謝罪しました。数日後にはIFMとMEFのメンバーが、ともにホニアラの目抜き通りをパレードし、IFMメンバーとMEFメンバーとが歴史的な握手を交わしました。これまでの和平合意ではなかった新たな動きがタウンズビル和平合意後には見られ、一瞬先行きが明るくなりました。

 11月には武装解除が始まり、11月中にIFMメンバーの所持していた武器類のほとんどが国際平和監視チームに引き渡されました。しかし、MEFの武装解除は殆ど進んでいませんでした。

 元MEFのメンバーの若者たちは、同僚のメンバーよりも少ない報酬しか得ていなかったなどの不満から、相変わらず過激な行動を繰り返していました。元MEFメンバーが事務所を構えるビルへの放火、元MEFのメンバーの活動事務所となっていた旧ガダルカナル州庁舎への放火、マーケット近くの乗り合いバスへの放火などです。

 政府が支払う補償金が過激行動を生んでいると言う見方もあります。これまで和平合意や和平会談で支払われた補償金は合計2億ソロモンドル(約40億円)に登ると言われています。IFFによって殺害されたマライタ人への補償、ガダルカナルを追われたマライタ難民への精神的苦痛への補償、生活自立支援、元MEFメンバーへのマライタ帰省旅費、MEFによって殺害されたガダルカナル人への補償、生活を脅かされたガダルカナル人への精神的苦痛にたいする補償等。補償金は個人を対象と言うよりも州政府やIFF、MEFの組織に支払われたものが多く、受け取るべく人が受け取っていないケースが多く、それに対する反発や、また補償金目当ての過激行為が繰り返された(繰り返されている)のではないかとも見られています。

 タウンズビル和平合意発効から半年以上たった現在もホニアラの状況は良くありません。武器はまだ半分が未回収のまま、ホニアラ市内では相変わらず毎夜のように銃声が聞こえます。元MEFメンバーによる過激行為によって、銀行や主要施設が業務を一時停止することもままあります。学校も一部しか開校していません。タウンズビル和平合意によって警察が再び治安維持の権限を獲得し犯罪撲滅運動を展開していますが、その過程で犠牲者が出て、ホニアラ住民にその反動の恐怖を抱かせる結果ともなっています。ホニアラにある外国公館は、これまでに車両や備品類の盗難にあい、特に被害が大きかったのはEUのミッションで、車両、ボート、船外機など合わせて50万ドル相当に登ります。その他にも、民間企業も乗用車やトラックが盗まれ、ホニアラを走る車は殆どが盗難車、盗まれた自分の車が走っていてもどうにもできない状態です。各国のボランティアは一部の人たちが他の島へ再赴任して来ていますが、青年海外協力隊は今年事務所を引き払いました。

 現在旧首相は裁判中、オーストラリア、ニュージーランド、バヌアツ、フィジーなどのメンバーによる国際平和監視チームがホニアラを中心にパトロールし、各地で武装解除を呼びかけ和解式を続けています。年内には各国援助機関の支援により総選挙が実施される予定で、その選挙を含めた新首相、新内閣の動向が注目されています。

 この紛争を民族対立と一言で言うのは、あまりにも単純すぎる気がします。武力行使を支持しているのは武装グループの一部にしか過ぎず、多くの人たちが平和的な解決を望んでいます。それに本当は「ガダルカナル人」「マライタ人」とじっぱひとからげに言える訳でもなく、「民族」としての一体感もはっきりしません。

 今後の課題も山積みです。

 タウンズビル和平合意で決定されながら、遅々として進まない武器の回収を今後どうやって進めていくのか。

 ホニアラ市内の治安をどうやって回復して行くのか。

 マライタやガダルカナル側のみに対して支払われている補償金に対して不満が出ている、他州出身者の被害や精神的苦痛に対する補償はどうするのか。

 他州の分離独立問題やState制への移行の問題はどうするのか。

 マライタの村には避難民があふれています。20~30年ガダルカナルで生活して来た人たちにとって、マライタの村の生活へ戻るのは簡単なようで難しいものです。自分の家も畑もなく、現金収入もまず見込めないのですから。その多くの避難民をどう支援して行くのか。

 子どもたちの教育の場の回復を初め、人々の精神的ケア、特に被害にあった人々、武装グループに参加していた若者たちの心のケアが心配です。中にはガダルカナルとマライタそれぞれの両親を持つ子どもたちも多くいるはずです。一体こんな子どもたちはこの紛争で何を考え、どう行動し、そして今どうしているのか、とても気になります。

 まだまだ本当の平和を取り戻すまでには時間がかかりそうですが、ソロモンらしい奇麗な海とヤシの木の緑、そして人々の笑顔ができるだけ早く戻るように祈りたいと思います。

(Pacific Islands Report, Solomon Star,Radio Australia, Solomon Islands Broadcasting Cooperation/Nius Online, Pacific Islands News Association 資料等参考)


<投稿者紹介>八坂由美さん
対馬出身。協力隊員としてミクロネシアのヤップ島に赴任したのを皮切りに、トンガ、ソロモン諸島などでも経験を持つ「アイランダー」。著書に『ミクロネシアで暮らす』がある。



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